お前とは仕事以外では話さない

 付添入院7日目。

 精神的にも肉体的にも限界となり、遂にテレビ電話越しに頭を掻きむしって泣きながら発狂(但し、大部屋なので音量はミュート)、それを見た夫が真に状況を理解して1日だけ付添入院を入れ替わってくれた。「くれた」なんていい妻ぶる必要はないか。当然のやるべきこととして、ようやく申し出たので許可した。夫婦だもん。過酷さを共有しておけば、いつか老後の笑い話になる。

 1日病院を抜けられて何をしたか。仕事したよね。7日間で業務が詰んでるし、不在中にやっておいてくれる妖精さんはうちの組織にはいない。上司は助けてくれない、ヘルプできる暇な同僚はいない、信頼できる後輩もいない。ダメなレストランみたいに、自分の残飯はいつまでもテーブルの上に残されていて、皿を下げてはもらえない。仕方ないからまた席に戻って、冷めて美味しく無いのを知っているのに、またナイフとフォークを握る。気分転換のための貴重な1日になぜ仕事をしたのか。たぶん残飯が腐るまで放っておかれるのを知っているから。未来の自分を救えるのは今の自分だけ。

 でも、7日間の不在を1日で巻き返せるわけもなく中途半端に仕上げて上司に報告。その時に上司が「病院にパソコンは持ち込めないの?」と言った。3人の子持ちのはずだが、子育てに対する理解度が底辺で驚かされる。重度の肺炎で泣きながら苦しんでる子供の横で仕事なんかできませんと努めて冷静に言ってみるが、声が震える。もうお前とは仕事以外では話さない、という名の刑罰に処す。

 こういう時、何人かのママ友に出来事と心情を吐露すると、瞬時に共感の嵐が返ってくる。今日1番面白かった返信は「その人ほんとに家族いるのかな。家族に必要とされてないのかな。いてもいなくてもいいくらいの存在だからそんなこと言えるのかな」本当にすごい。私の上司を1㍉も知らないママでも全力で攻撃してくれる。それはきっと同じようなことを体験してるからだね。

本物のフェミニスト

 今回で5回目か。

 もうすぐ4歳になる次女の入院に、付添人として一緒に入院することになった。2日前の晩に家で聴診器を当てるとゼコゼコと肺から嫌な音がして、念のため痰を吸引してもらおうかと主治医のいる総合病院に掛かったところ、事態は急転直下。とんでもない。血中酸素濃度は90%から上がってこないし、検査の結果でエンテロウィルス、パラインフルエンザ、RSウィルスの3つに感染していることも判明した。こんなにも気付けないものかと、絶望する。出生から今に至るまで、不健康が常態化してる次女は息苦しさや痛みがあっても元気に日常生活を送れてしまう。だからいつも騙されて、対処が後手に回る。

 診察を受けた時、医師の様子から入院以外に選択の余地は無かったし、当たり前のように看護師は入院手続に移行していた。働いていたとしても、急な入院に耐えられると思われている。

 それって、ママだから?

 もちろん入院するしかない。子供の体調がこれほど悪いのに、それより優先してやるべきことなんてこの世にはきっと無いのだろう。今まで4回やってきたように、突然、仕事を休む。前回の突発的な入院から半年以上も時間が空いてしまったので、この精神的な辛さや悔しさや不甲斐なさを少し忘れていた。うっかり仕事を本気でやってしまっていた。重要な、時限性の高い、関係者の多いプロジェクトを任されてしまっていた。

 でも、それは関係ない。

 鈍れ、感性よ。消せ、罪悪感を。

 全ての仕事を誰かにぶん投げるしかない。

 そして今夜。入院2日目。普段忙しいから、いつも片手間の育児だから、全ての時間を子供に捧げることがあってもいいよね。まだ3歳の次女の顔をじっくり見ておこう。

 4組が入れる大部屋に3組が入っていて、うち以外の親子はパパが付添人で、大部屋にいびきが響き渡っている。付添人がママだっていうのは、私自身の偏見だったんだね。笑いが込み上げる。もう令和なんだから、男女関係ないよね。そして、ここにいるパパ達は私とは比べ物にならないくらい仕事との向き合い方や自分のアイデンティティーと戦っているのだろう。

 いびき、うるせーけど。

ぴーえむえす

 ご機嫌な私なんて、1ヶ月にせいぜい3日。あとは不機嫌に生きてます。まず生理1週間前から情緒不安定で、生理中は当然体調が不安定で、生理後は貧血が加速して情緒も体調も底辺。そこから浮かび上がるのにも時間を要して、結果3日くらいしか残らない。そういう事実を世の男性は理解してくれているか。おそらく結婚後に理不尽な八つ当たりをされてようやく知ることになる人がほとんど。女は毛が生えなくて、口臭もなくて、髪の毛は整っていて、いつも笑っていられるという幻想。女側の努力が無ければ、この世に女は存在しない。ボーヴォワールもそういうことまでを含めてかの名言「人は女に生まれない。女になるのだ」を残した可能性は無いか。無いかな。どうかな。

 日々、不機嫌な私を誰にも気づかれないようにするというスキルだけが上達して、外界での疲労度が尋常じゃないので、可哀想だけど夫にだけはそのスキルを発動せず、家庭ではありのままの自分でやらせてもらってます。

 一個だけ礼儀として「今日からPMSだよ」とは伝えるようにしていますが、それを言うことが「今日からお互いちょっと気をつけよう」ということ以上に一体何の役に立っているのか、私にも夫にも正直わかっていません。

全部、ロックだった。

 29歳の春。

 シンガポールへの一年間だけの赴任。

 もう10年前か。10年経って、その間に何度も思い出した。フラッシュバックする場面はどれも鮮明で、後悔と慕情が混在する複雑な感情でそれらをただ眺める。私にとってあの日々は、人生で一番情けない日々。だけど、青春のど真ん中で、最高にロックだった日々。二度と戻りたくないほど恥ずかしいことが多いけれど、やっぱり通らないとその後の人生がうまく繋がっていかないと確信できる、そんなターニングポイントだった。いくつもの人生の選択があの一年に集約されていたのに、私自身はそのことを理解しておらず、ただ無意識に本能的な決断ばかりを重ねた。でも、きっとそれが結果的にはとても良かったのだ。

 極彩色のアジアの夜は、華やかで騒がしく、若いエネルギーを無限に吸い込んでくれた。そんな喧騒を捨てて、日本に帰国することを決断した時に、私の手の中からは海外赴任の夢が消えて、未来の夫が残っていた。

 シンガポールでの仕事は、だらしなかった。毎晩酒を飲み、毎朝二日酔いで、今の業務量と比べたらろくに働いていなかったと断言できる。それでも、一つだけやったと言えることがあるとすれば、バンド。総勢9名、私を除いてみんな男性、会社内の職務は様々で、ディーラーやら部長やらシステムエンジニアやら、個性も様々で年代も様々。元々は毎年開催される社内の500人規模のクリスマスパーティーに向けて組成されたバンドで、バンド以外にもパーティーを盛り上げるための催し物として有志のダンスチームなども立ち上がっていた。ダンスチームは応募人数が多く、特に若手に人気で、文化祭のような雰囲気で本番に向けて楽しそうに練習していた。そんな中、私はなぜか同じチームにいた同僚のK氏の強い推薦により、あまり人気のないバンドの、しかもボーカルに抜擢された。初めてメンバーが集まる会議室に入ったとき、引き返したくなるくらい雰囲気が悪かったのを覚えている。業務上普段関わらないような男性陣に囲まれて震えていた。

 そこから一体どのようにして打ち解けたのか全く記憶にない。明確な出来事があったわけでは無かったが、日々のバンド活動を通して徐々に唯一無二の、メンバー曰く「最高のバンド」になったのだろう。バンド経験がなく比べるものがないからよくわからないが、私の人生でおそらく唯一のバンド。クリスマスパーティーが大成功を収めたから余計に結束したのだろう。

 メンバーのバンド愛は強かった。ボーカルに対しての期待も高かった。

 私は別に特別歌がうまかったわけではないが、歌えと言われた歌を少しも恥ずかしがらず振り切って歌えたし、英語の発音が良かった。私の歌い方の癖を理解したメンバーはまずロックを教えてくれた。それまで聞いたこともなかったし、聞いても特に良さはわからなかったが、毎日毎日聞かされているうちに親しみくらいは湧いた。名曲のいくつかをネットで検索したら、今はどのロックバンドも老人ばかりで驚いた。

 メンバーはみんなバンドを通して誠実に音楽をやろうとしていたと思う。私だけ未熟で、私だけ誠実じゃなかった。私以外のメンバーは楽器を奏でることができ、それは経験がないと扱えないもの。コードを覚えたり、指の運びを覚えたり、どの楽器も長時間の鍛錬が必要で、彼らはそれを地道にやってきたという自負があり、堂々としていた。私は歌うだけで、その歌唱力は友達とカラオケで遊びながら鍛えただけだったが、私が彼らの中であんなに堂々としていられたのはなぜだろう。今からでも当時の自分に尋ねたい。

 「ねぇ、それは若いから?」

 歌詞をろくに覚えずステージに上がったし、音程もよく外した。メンバーが勝手に受けてきたステージの依頼をこなしているという感覚が強く、前向きに取り組もうとか、アピールしようという意欲に欠けた。私だけが他の8人と相当の温度差があったにも関わらず、それを叱られたことはなく、逆に私のいい加減さや、上下関係を無視した無邪気な行動や、二日酔いで嗚咽しながら歌う様子さえも、面白がられていたような気がする。

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 帰国してから数年後のある夜、バンドメンバーのうち数人が丸の内勤務であることがわかり、久しぶりに集まろうということになった。楽しい夜だった。終盤に差しかかった頃、あの日々は宝物だったと誰かが言って、その場にいた全員が激しく同意して頷いていた。

 私だけ、少し違う気がした。一人だけ不誠実だったのに、その日々を宝物と言われると居心地が悪かった。そんな想いをそのまま酔った勢いで伝えると、予想外の言葉が返ってきた。

 「それが良かった」

 あなただけ、そういう過ごし方をしてくれたから、みんななんだか力が抜けてあのバンドは結束できた。そう言われるのは不思議な感覚だった。私自身のリアルな記憶を超えて、誰かの美しい思い出の中で私が輝いている。それってまるで小説みたい。そして、その夜からもう気にしなくなった。誰かの記憶に強く作用してしまっている自分の存在を、一つ一つ消して周ることはできないのだから、もう小説の登場人物にでもなったような気分で、あの頃の奔放な自分を放っておこうと思った。「そんなこともありましたね」って今なら笑える。

 

 

 

命の順番

 命の順番について考える。

 生きている人間には全員番号が振られていて、その順番に死ぬ。

 「ママも、いつか死ぬの?」

 保育園からの帰り道で娘にそう聞かれた日から、いつか自分の人生が終わることを強く自覚するようになった。もしかしたら、もう折り返しているのかもしれない。娘よりは、たぶん先に死ぬ。私の番号は高い確率で娘よりは早い。でも、それが何番なのかは知らない。

 義父は四人兄弟の四番目で、昨年二番目のお兄さんが亡くなって、今年一番目のお兄さんが亡くなった。先日会った時に「来年は自分かも」と冗談のように言っていたが、その冗談は笑えなかった。いつまでも元気でいて欲しいけど、たぶん順番が近づいているのは確かだ。それは私も一緒なのだから、義父よ、安心してちょうだい。

 もう折り返しているのだとして、人生の前半は次から次にやることがあって、正直、この歳になるまで走り抜けてきた感覚がある。小学校まではあまり記憶もないが、小学校、中学校、高校、大学、社会人、結婚、出産、いつもやるべきことは多かった。自分が自分自身に、あるいは周囲が勝手に私に課してきた「やるべきこと」は、もう特になさそうだから、たぶん人生の後半は長く感じるだろう。

 自然体なら人間の寿命は約38年というのを何かで読んで、「あ。じゃあ、もうそろそろ死ぬころだ」自分が今抱えている“生きるのに少し飽きている感覚”の解が見つかったようで少し安心した。肉体はもう死んでもいいと言っている。ただ、心はまだ生きると言っている。

 「もうその話はおしまい」

 命の話は、必ず娘から始まって娘が終わらせる。気になって仕方がないけれど、聞いて悲しい気持ちになると突然おしまいを告げる。

 今日は、ここまで。

一瞬で、永遠で、

 自分は今、子育てについては人生の中で一番幸せな時期にいるという確信がある。

 歳を取って振り返った時に「気が付かないうちにあっという間に終わってました。一番幸せな時期は自覚なく過ぎていくものですね」なんて言うつもりはない。今だと思う。一瞬で、永遠で、ずっと忘れたくない、そう思いながら毎日を過ごしている。

 母親がよく言う「子育てはやり切った。何もやり残したことはない」という台詞が好きだ。私もいつかそんな風に思えるようにしたい。実態としては、やることが多すぎて時間的な余裕はなく、肉体的にも限界突破で毎晩よく眠れるという感じではあるが、子供の言動や笑顔に癒されて精神的に救われることが本当に多い。

 私の頭の中では、子育ては仕事のようにタスクがいくつか設定されていて、各タスクには線表が引かれて、私は忙しくPDCAを回している。例えば、臍ヘルニアを手術すること、便秘を解消すること、イボを治すこと、指しゃぶりを終わらせること。そういう表面的で目標設定しやすいタスクもあれば、いつも子供に誠実でいたか、感情に任せて叱っていないか、スキンシップは足りているか、過不足なく愛していることが伝わっているかなどの本質的で評価が難しいタスクもある。

 私が子育てで真に達成したいことは何だろう。

 シンプルに「子供が育つ」ということなのであれば、実は親が放っておいても立派に子供が育つケースはあるし、上司がやっていたようにお金を出してプロのシッターが育てたって別にいいはずで、ましてや親以外の大勢の大人が関わったほうがバランスの良い人間になるという説もある中で、私は人に任せることを感覚的に許容できずに仕事の量を減らしてでも主体的に関わることを選んだ。勝手に育つんだろうけど、せっかくここに生まれてきてくれたのだから、この環境でこの親でできる最高の子育てをしてあげたい。何か特別なことをしてあげられるわけではないけれど、有形にしろ無形にしろ子供に与えたものは、子供の感情と結びついて、いずれ個性という形で答えが出る。

 私はその答えを楽しみに待っている。

 

違う季節

 長女が小学校に入学してからもうすぐ1ヶ月が経とうとしている。急速に世界が広がって、それに身体が順応していくスピードは驚異的。

 この時期、どこに行っても大人は同じ質問をする。それに対して長女は一言しか返さない。

 「学校、楽しい?」「いや、楽しくない」

 私はフォローしない。相手が凍りついても場を取り繕わない。むしろ、その感覚でいいと思う。だって楽しくはないでしょ。私も毎日行ってる会社が楽しいかと聞かれたら「楽しくない」と言うし、そもそも楽しむために行っているわけではないことが明白なのに楽しいかどうか聞くセンスよ。

 子供は何をしても楽しめるとでも思ったか。

 小学生になってから揉めるネタが増えた。それは学校の持ち物だったり服の組み合わせだったりお菓子を買う量や種類だったり。私が何をしても、きっともう心から喜んではくれないし、納得もしてくれない。私と人格が違うことを知ろうとしている。私に対して怒って、イラついて、やがて諦めていくのかな。それはとっても寂しいけど、そういう季節が始まったのかな。

 これが何年か続いて、その次はどんな季節?